学生の活動

早稲田大学表象・メディア論系院生誌 In-vention

2012年、大学院表象・メディア論コース所属の大学院生の研究成果を示す場として、院生誌 In-vention が創刊されました。

第4号(2015年度)

論文
浅野修平
ドゥルーズの『ベルクソニスム』から『差異と反復』へ
――二つの概念、問題と強度をめぐって――
松本美華
展覧会空間が規定する写真観、観者の身体の変容
――MoMaで開催された4つの展覧会を巡って、「The Family of Man」展を中心に
伊藤潤一郎
「無為の共同体」における『存在と時間』解釈再考
――ナンシーによるder Anderenの翻訳をめぐって
修士論文概要
久後香純
《アトラス・グループ》におけるフィクション的ドキュメンタリー ワリード・ラードのレバノン内戦表象について
研究ノート
伊藤泰朗
機械仕掛けの知覚、存在論的映画
――サミュエル・ベケット『フィルム』と記録メディア――
謝天
日本動漫(マンガ・アニメ)」の言説についての再考
朴夏辰
サミュエル・ベケットEndgameにおける親子と語り
――血縁/養子、父/母
批評
田村晨一郎
魔術としてのアニメーション
――ヤン・シュヴァンクマイエル『悦楽共犯者』をめぐって――

第3号(2014年度)

論文
工藤顕太
思弁の行方
――「彼岸」を思考するデリダ/ラカン――
渡邊雄介
絵画における「読めるもの」と「見えるもの」
――ジャン=フランソワ・リオタール『言説、形象』の絵画論
伊藤潤一郎
存在者の隠喩化
――デリダにおける「詞華集(アントロジー)」をめぐって
小林嶺
デリダにおける亡霊の問題
――フッサール・ハイデガーとの関係を中心に――
研究ノート
朴夏辰
大島弓子『毎日が夏休み』
――ハッピーエンドのシミュレーション――
久後香純
Robert Capa とイスラエル
批評
山崎健太
移人称/演劇/鳥公園

第2号(2013年度)

論文
伊藤亮太
引き退きと歓待のエクリチュール
――モーリス・ブランショのシモーヌ・ヴェイユ論をめぐって
馬場靖人
カンギレムの「色盲論」
工藤顕太
道徳の起源への遡行/不可能
――フロイトの欲動論におけるアポリア――
渡邊雄介
メルロ=ポンティとリオタール
――逆過程と超反省――
伊藤潤一郎
パルタージュとミメーシス
――ジャン=リュック・ナンシー『声の分有』におけるパルタージュをめぐって
渡辺健一郎
ジャン=リュック・ナンシーの上演理論
――スペクタクルと共同性をめぐって
修士論文概要
磯村紀久子
Into the Woods 論
――音楽のモチーフ構造にみる二項対立の侵犯――
研究ノート
岡添瑠子
アーカイヴ、写真、記憶
――ゲルハルト・リヒター《アトラス》をめぐる言説
書評
辻佐保子
The Oxford Handbook of the American Musical (Oxford: Oxford University Press,2011)
批評
山田裕理
「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ 写真であそぶ」展
――2人の写真家のアルバム――
桝田安美
虚構であること、ミュージカルであること
――ミュージカル『ラ・マンチャの男』再考――

第1号(2012年度)

論文
鹿野祐嗣
論理学は出来事を語ることができるか?
――『意味の論理学』の論理学をめぐる小論
馬場靖人
視覚経験の考古学
――色盲・スーラ・ヘルムホルツ・テレビ
工藤顕太
文字とフィギュール
――ジャック・デリダ「真理の配達人」読解
渡邊雄介
リオタール再考
――感覚的なものと有意味なものの間
研究ノート
伊藤亮太
反映たちの空虚
――『私についてこなかった男』における「中性的なもの」について
磯村紀久子
スティーブン・ソンドハイムとそのコラボレーター達について
萱嶋尚史
野田秀樹をめぐる言説の変遷
島越翔平
書かれなかったバルト小説への探求
――『エクリチュールの零度』を出発点として
書評・批評
宝田亮祐
インターテクスチュアリティのメディア比較試論
――夭折のマンガ家、青山景「ストロボライト」を題材として
山崎健太
「として見る」こと
――村川拓也『ツァイトゲーバー』『言葉』のtheatricality
岡添瑠子
写真の眼、天使の眼
――「歴史の天使」展
吉田夏生
現代ヒーロー映画試論
――「男らしさ」に別れを告げて

更新情報

2016.04.13
2016年度春期・秋期の時間割を更新しました。

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